幸が結のために考えた合力(ごうりょく)とは
結は幸の3才年下の妹
NHKBS時代劇「あきない世傳(せいでん)金と銀2」で、長澤樹さんがキャストとして扮する人物に結(ゆい)という女性がいます。結は幸の3才年下の妹で、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)の津門村(つとむら)にのこった唯一の肉親です。
幸は9才で大坂天満の五鈴屋に女衆(おなごし)として奉公に上がったあと、母・房(ふさ)と妹・結は津門村の豪農である彦太夫(ひこだゆう)の住み込み下女として働きます。
しかし1747(延享4)年、母・房は突然、心臓の激しい痛みに襲われ、あっけなく亡くなってしまいます。享年50。
周りに家族がいなくなった結を引き取る幸
母・房の死後、津門村の彦太夫にのこった結の処遇が問題となります。
結の父・重辰(しげたつ)と兄・雅由(まさよし)はすでにこの世の人ではなく、彦太夫は母・房が懸命に働いていたことを考慮して、引き続き結は働いて然るべき縁組があれば世話をしてやっても良いと考えました。
しかし、「あきない世傳金と銀2」の主人公で姉の幸(小芝風花)は、「合力(ごうりょく)」という考えのもとに彦太夫から結を引き取って、大坂天満の五鈴屋で養うことを決意します。
商家の合力
合力とは親族間の扶養
「合力」とは親族間の扶養をするための決まりごとです。商売を営む商家には浮き沈みがあります。もし家業が傾き、食べられなくなった者に対して、その親類縁者は米や銀など相応の扶持を与えたり、身寄りを失くしたものに対して引き取って扶養すべしという定めがありました。
前者を扶持方合力(ふちがたごうりょく)、後者を引取合力(ひきとりごうりょく)と言います。幸が結に適用したルールは後者の引取合力の方です。
合力とは強力な決まり事だった
引取合力の義務がある者の中には姉婿も含まれます。すなわち仮に幸の夫である智蔵からの申し出がなかったとしても、結の方から自分の身柄を引き取るよう訴え出ることもできました。
つまり合力とはそれだけ強力な決まり事でもありました。結局、小説版「あきない世傳(せいでん)金と銀」(五)転流篇でも、ドラマ版「あきない世傳(せいでん)金と銀2」でも、結は幸に引き取られ大坂天満の五鈴屋で一緒に暮らすことになります。
武家の合力
家督相続のための合力
幸が結に適用した「合力」というルールは、何も町人の階級だった商家だけに存在したものではありません。
武士階級においても親族が経済的に困窮した場合に、親戚が互いに助け合うための「合力」 がありました。これは、当時の封建社会において血統を絶やさぬことを至上命題として、家制度(家督相続)を維持するための仕組みの一つとして機能しました。
武士階級における合力の仕組み
「合力金(ごうりょくきん)」と「合力米(ごうりょくまい)」
武士の家は「家督相続」が基本であり、長男が家を継ぐのが一般的でした。しかし、次男や三男は家を継げず、経済的に困窮することが多かったため、親族が支援する仕組みが必要でした。
このため「合力金(ごうりょくきん)」や「合力米(ごうりょくまい)」 という形で、家計が苦しい親族に対して経済的な援助が行われた。これは単なる慈善ではなく、「家」全体の存続を目的とした相互扶助の仕組みであった。
具体的な支援内容
- 仕官(武士の職を得る)を斡旋:コネを活かして親族に仕官の機会を与える。
- 合力金を支給:経済的に困窮した親族に金銭を援助。
- 養子縁組の紹介:家を存続させるために、養子を迎える支援をする。
- 親族の未亡人や孤児の扶養:家族を失った女性や子どもを保護する。
「合力」の目的と実例
家の存続と社会の安定のために合力が推奨された
江戸時代の社会は「家」単位で成り立っており、個人よりも家の存続が重視 されていました。そのため、「合力」は以下の目的で行われました。
家制度の維持
- 家督を継げない者が生活に困窮し、武士階級から脱落するのを防ぐ。
- もし親族が困窮して没落すると、一族全体の評判が落ちるため、合力で支援。
社会的安定
- 武士が生活に困窮すると、犯罪や浪人化(脱藩)するリスクが高まるため、親族間で支え合うことで社会の安定を図る。
- 大名や幕府も、藩士や旗本が没落しないよう「合力」を推奨した。
徳川御三卿も合力
武士階級における「合力」は、大名家や旗本の間だけではなく、徳川将軍家の中でも行われていました。歴史的にも有名な徳川御三卿です。
江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗と九代将軍・家重の治世以降に御三卿という、将軍継嗣を出す権利がある3つの家である、田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家が誕生します。
この御三卿はもし徳川宗家から将軍の後継者を出すことができない場合、将軍の「養子」を送ることができました。3つの家はそれぞれ江戸城内に屋敷を与えられ、10万石の大名と同じ格式を有すると処遇されました。
八代将軍・徳川吉宗が最初に田安と一橋の2つの家を創設したときは、10万石分の知行地を与えるのではなく「合力米(ごうりょくまい)」を支給していました。