あきない世傳金と銀2 中村富五郎(片岡千之助)娘道成寺の人気女形

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あきない世傳金と銀2の中村富五郎とは

「お練り」に使う衣装を五鈴屋に依頼する中村富五郎

NHKBS/BSプレミアム4Kで2025年4月6日から放送される「あきない世傳(せいでん)金と銀2」の江戸編に登場する人物として、片岡千之助さんが扮する中村富五郎(なかむらとみごろう)という男性がいます。

中村富五郎は、歌舞伎の江戸三座の1つである中村座の人気女形で、「娘道成寺」という演目が興行される前に、五鈴屋七代目当主で主人公・幸(小芝風花)に「お練り」で使う衣装を揃えてほしいと依頼します。

幸の亡き夫・智蔵が取り持った縁

江戸に進出して日が浅い五鈴屋江戸店にもかかわらず、幸が人気の歌舞伎役者と商売上の繋がりが持てたのは、大坂の人形浄瑠璃の筑後座で人形遣いの亀三(星田秀利)とすでに繋がりがあったり、歌舞伎役者・菊瀬栄次郎の無理な注文を聞いたりという縁があったからです。

ただ中村富五郎にしても亀三にしても菊瀬栄次郎にしても全ては、五鈴屋の六代目当主で、幸の亡き夫であった智蔵がまだ草双紙の作者を目指していた頃に築いた縁でした。

中村富五郎は「禁色」の紫色を使えた理由

町人階級は紫色を身に纏うことは許されなかった

さて幸に衣装を依頼した中村富五郎は「鈴の小紋染めを使った反物を仕立てること」を条件とし、その色については特に注文はつけませんでした。そこで幸は染物師である力造に中村富五郎のために江戸紫(えどむらさき)を使った小紋染めにするよう依頼をします。

しかし「あきない世傳金と銀2」の時代背景である江戸時代では、紫は「禁色」に指定されていました。禁色とは天皇・将軍・上級の公家や僧侶だけが身につけることを許された色で、町人や「士農工商」の四民制度の中にさえ入っていない歌舞伎役者が身につけても良い色ではなかったのです。

実際、江戸幕府は紫を禁色とする「奢侈禁止令」をたびたび発令していました。幸はこの存在を知らなかったのでしょうか?

紫色の禁色は有名無実化していた

幸は幕府が発布する「奢侈禁止令」を無視していたわけではなく、以下のような理由でこの禁令はすでに有名無実化していため、特に気にする必要はありませんでした。

1. 禁色の対象は「特定の紫」だった

平安時代から江戸時代にかけて、紫色は高貴な色とされ、特に濃い紫(高貴紫)は天皇や公家の上級貴族のみが使用を許されていました。

しかし、江戸時代に町人の間で流行した「江戸紫」は公家が使う「京紫(きょうむらさき)」とは異なる色味です。

  • 京紫(きょうむらさき):やや赤みがかった紫(青紫より赤紫系)。
  • 江戸紫(えどむらさき):青みが強く、渋い紫。

江戸紫は京紫とは別のものとして、禁色の対象ではないと解釈していました。

2. 町人文化の発展と権威への挑戦

江戸時代になると、特に元禄時代(17世紀後半~18世紀初頭)から町人文化が大きく発展します。

江戸の町人は、商業で財を成し、生活に余裕ができると武士の身分制度に対抗するかのように、贅沢な文化を楽しむようになります。町人は公家や武士に許された「京紫」は使えなくても、独自に「江戸紫」を流行させることで、自分たちの文化を確立しました。

そのうち江戸紫は町人の粋(いき)を象徴する色となり、特に歌舞伎役者や遊郭の女性、浮世絵の着物などで多く使われることになります。

3. 染料技術の発展と「江戸紫」の普及

江戸時代中期には、染色技術が向上し、安価で美しい紫色が染められるようになります。

江戸紫は「紫根(しこん)」(紫草の根)という天然染料を使って染められます。紫根染めは従来の「京紫」よりも発色が鮮やかで青みがかった紫です。

江戸紫は町人階級の間で手に入りやすくなり、普及が進みました。

5. 歌舞伎・浮世絵の影響

歌舞伎役者や浮世絵に描かれる人物が「江戸紫」の着物を身につけたことで、庶民の間で「江戸の粋な色」として人気が高まります。

江戸時代のファッションリーダーとも言える歌舞伎役者たちがこぞって江戸紫を取り入れたことで、町人もそれを真似するようになった。

ちなみに「あきない世傳金と銀2」の原作小説である「あきない世傳金と銀」の(八)瀑布篇では、中村富五郎が身に纏った「江戸紫の鈴の小紋染め」は爆発的にヒットし、「五鈴屋江戸店」の売上が飛躍的に増加します。

徳川吉宗が紫草の栽培を奨励した理由

紫草の栽培を奨励した徳川吉宗

このような文化的背景を経て、紫草の紫根を原料とする江戸紫の紫色は町人階級にも使われていましたが、染料の原材料である紫草の普及そのものは、なんと江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗自身が奨励していました。

幕府が発布する「奢侈禁止令」と矛盾した政策にも見えますが、徳川吉宗が紫草の栽培を奨励したのは以下の理由が挙げられます。

1. 紫草の絶滅を防ぐため

紫草は紫根(しこん)という染料を採るために利用されましたが、成長に時間がかかり、採取が難しい植物です。

当時、紫根染めに使われる紫草が乱獲され、野生の紫草が減少しつつあり、吉宗は、紫草の保護と安定供給のために、幕府の管理下で栽培する政策をとったといわれています。

2. 漢方薬としての利用

紫根は染料だけでなく、漢方薬としても貴重な存在です。解熱・消炎作用があるとされ、民間薬としても使われていました。

吉宗は小石川養生所に見られるよう薬草の栽培と普及を奨励していたため、その一環として紫草も対象になった。

3. 国内の染料自給と貿易赤字の解消

江戸時代、日本では一部の染料(特に紅染めに使う紅花など)を輸入に頼っていました。紫根染めは、国産の紫草から取れるため、幕府としても国内で染料を自給できるメリットがあります。

輸入に頼らず、国内生産で染料を確保することは、外国との貿易赤字を解消し幕府の財政を安定させるための経済政策としても重要な課題でした。

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