大岡越前7 江戸時代における下水道の歴史と技術

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江戸の町は清潔だったのか?

江戸を同時代のパリ・ロンドンと比べると

前回、前々回の記事で、NHKで放送される特選時代劇「大岡越前7」と絡めて、江戸時代の上水道開発の歴史と技術についてご紹介をしました。

これらの記事で「江戸の上水道」を紹介したので、今回は「江戸の下水道」です。下水道の構造やシステムがしっかりしていないと公衆衛生が悪化し、小石川養生所にはさらに多くの感染症患者が送り込まれたことになったでしょう。

江戸は同時代のパリやロンドンなど世界の大都市と比べて、極めて清潔といわれた江戸はどのように下水道を発展させたのでしょうか?またその技術はどのようなものだったのでしょうか?

江戸の下水道の歴史

江戸の都市計画に組み込まれた「排水設計」

江戸の町は、徳川家康による都市開発の初期段階から、自然の高低差を活かした排水システムが意識されて設計されています。

雨水や生活排水を町の外へ流すため、通りには必ず側溝(どぶ)が設けられ、家々の間を水が巡っていく仕組みがありました。

この側溝は「開渠式」と呼ばれるもので、表通りでは暗渠(地下に埋めた排水路)が採用されることもありました。生活の中で出た水は自然勾配に従って低地へと流れ、最終的には隅田川や江戸湾に注がれます。

パリやロンドンはどうだったのか?

一方で、同時代のヨーロッパを見てみましょう。たとえばフランスのパリでは、14世紀に下水道の建設が始まったものの、維持管理がほとんど行われず、400年もの間ほぼ放置状態にありました。住民の生活排水は街路に垂れ流され、感染症や悪臭が都市を覆っていたのです。

イギリスのロンドンではさらに衝撃的です。排泄物を窓から投げ捨てるという習慣が18世紀頃まで続いており、「Gardyloo!(水に注意!)」という掛け声とともに、人々は糞尿を通りにまき散らしていました。

また19世紀半ばにはロンドンを流れるテムズ川が放つ悪臭のおかげで、議会を開くことができなかったという記録が残っているほどです。

江戸は“し尿リサイクル都市”だった!

パリやロンドンと比較して江戸では、汲み取り式便所が整備され、糞尿(し尿)は「下肥(しもごえ)」として農村に売られていました。農家にとっては貴重な肥料であり、江戸市中の汲み取り業者が武家や町方から回収して、農村に供給する“循環型の資源システム”ができあがっていたのです。

このシステムのおかげで、江戸の町には糞尿があふれることもなく、都市としての清潔さが保たれていました。実際に、19世紀に日本を訪れた欧米人の多くが、「江戸の街が驚くほど清潔である」ことに感嘆した記録を残しています。

江戸の町人たちの衛生観念

江戸では町ごとに組織された「五人組」や「町役人」が、定期的などぶさらい(側溝の清掃)を指示・実施していました。これは春と秋の年2回が基本で、町内総出の清掃日でした。

このように、住民自身が公共空間の清潔を保つ意識を持ち、実際に行動していたのが江戸の都市文化です。見た目を美しく整えるだけでなく、「臭わない」「病気を避ける」といった実利的な衛生観も浸透していたのです。

江戸時代の下水道技術

下水道の基本構造:小下水と大下水の分担

江戸の排水システムは、現代のようなコンクリート製の地下配管とは異なり、木や石、竹などの自然素材を用いたシンプルな構造でしたが、極めて機能的でした。とりわけ注目すべきは、「小下水(こげすい)」と「大下水(おおげすい)」という二段構えの排水ネットワークです。

小下水と大下水が連携することで、江戸の町全体に排水が行き届き、生活の快適さと公衆衛生が守られていました。

小下水(こげすい)

各家庭や長屋の敷地内に設けられた小さな溝のことです。炊事、洗濯、風呂などで出た生活排水は、まずこの小下水を通じて敷地の外へと排出されます。つまり、排水の“スタート地点”にあたるのがこの小下水です。

大下水(おおげすい)

町全体で共有される側溝のことを指し、小下水から流れてきた排水を集めて、町外れの堀や川へと導く“幹線道路”のような役割を担っていました。通り沿いや地下に埋められたこの大下水は、町の衛生を支える重要なインフラだったのです。

排水先への工夫:杭の設置でごみの流出を防ぐ

生活排水には当然、ごみや枯葉、時には調理くずや紙片なども混ざります。これがそのまま堀や川に流れ込めば、悪臭や水質汚濁の原因となってしまいます。

そこで江戸では大下水の出口、すなわち堀や河川と接する地点に杭(くい)を打ち込むという仕組みが取り入れられていました。これにより、排水に混ざったごみや浮遊物を物理的にせき止め、川に流出するのを防いでいたのです。

杭には「ごみ留め」や「しし垣」といった名称があり、これに引っかかったごみは町役人や掃除人足が回収していました。こうした仕組みは、現代でいう「ごみスクリーン」や「沈砂池」に相当する役割を果たしており、非常に実用的な技術だったといえるでしょう。

素材と構造の工夫:木・石・竹を使いこなす

江戸の下水道で使われていた素材も興味深いものがあります。たとえば、家庭内や町内の排水路には、以下のような素材が使われていました。

  • 木樋(もくひ):杉やヒノキの丸太をくり抜いたもの。軽量で加工しやすく、粘土や縄で継ぎ目を密閉して漏水を防止。
  • 石樋(せきひ):石をくり抜いたもの。耐久性に優れており、武家屋敷や公共施設などで多く使われました。
  • 竹樋(たけひ):安価かつ一時的な排水路として使用され、仮設や補修などに重宝されました。

排水路には、木製の蓋や板がかぶせられ、悪臭や見た目への配慮もされていました。また、通りの美観を保つために、暗渠化(地下に埋める)されるケースも多く見られました。

精密な勾配管理と測量技術

江戸の下水道は、すべて自然流下、つまり「水は高い所から低い所へ流れる」という原則に従っていました。ゆえに、わずかな勾配差でも重要で、これを正確に設計・施工する技術が不可欠でした。

当時の測量では、竹筒に水を流して傾斜を確認したり、水平器代わりの「水盛台」を使って勾配を測ったりする方法が用いられていました。また、仮に浅い溝を掘って水を実際に流してみるという“現場主義”の確認方法も取られていたのです。

これらの技術によって、わずか1000分の2(2‰)という精密な傾斜を保ちながら、水が滞りなく流れるよう設計されていました。

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