大岡忠相と長谷川平蔵
大岡忠相が活躍した時期は「享保の改革」時
NHK特選時代劇「大岡越前7」とNHKBS時代劇「大岡越前8」は、主人公・大岡忠相が人情味あふれる江戸南町奉行として活躍するドラマです。
大岡忠相が町奉行として活躍した年代は、主に八代将軍・徳川吉宗の治世の享保年間(1716年〜1736年)と、九代将軍・徳川家重の治世の元文年間(1736年〜1741年)です。
長谷川平蔵が活躍した時期は「寛政の改革」時
一方、テレビドラマシリーズ「鬼平犯科帳」の火付盗賊方改(ひつけとうぞくがたあらため)として有名な長谷川平蔵は大岡忠相よりも後の世代の旗本で、「鬼平」として活躍したのは十一代将軍・徳川家斉の治世で、老中・松平定信が「寛政の改革」を行なっていた時期です。
大岡忠相の江戸南町奉行所も、長谷川平蔵の火付盗賊方もどちらも今でいう警察の機能を持っていましたが、何がどう違うのでしょうか?
2025年大河ドラマ「べらぼう」では中村隼人さん扮する長谷川平蔵が登場します。ドラマの後半では「鬼平」としての活躍が予想されるため、今回の記事では、町奉行と比較されやすい火付盗賊方改、いわゆる「火盗改(かとうあらため)」について紹介します。
火付盗賊方改とは
火付盗賊方改の始まり
1657(明暦3)年、江戸の町に大火が襲います。いわゆる「明暦の大火」のことですが、この大火をきっかけとして江戸に各地から盗賊が入り込むようになり、治安が急激に悪化します。
そこで幕府は治安維持の観点から1665年(寛文5)年に「盗賊改(とうぞくあらため)」を設置します。その後も「火付改(ひつけあらため)」、「博打改(ばくちあらため)」も設置され、その3つの改が統廃合される形で「火付盗賊方改(火盗改)」が誕生しました。
江戸幕府の職制における火付盗賊方改
17世紀後半に設置された当初、火付盗賊方改は幕府の正式な職制にはなく、先手頭(戦時の先陣を務める役職)や持之頭(将軍の弓・鉄砲を管理する役職)が兼任する役職とされていました。火付盗賊方改は、時代を経るにつれ正式な役職と認識されるようになります。
なお、町奉行が幕府の執政たる老中の配下にあったのに対して、火付盗賊方改は徳川家の家政を仕切る若年寄の配下に置かれていました。
火付盗賊方改の任務
火付盗賊方改の任務を一言で言ってしまうと、江戸市中における「特別警察」です。
江戸市中の警察と言うと、町奉行にも警察権や逮捕権が認められていましたが、火付盗賊方改が取り締まりの対象とするのは、無宿人・町人・百姓が起こした放火・強盗を中心に、これらに準じる脅迫・恐喝・詐欺に限定されていました。
また町奉行には現代の裁判所や法務省にあたる機能があり、被告人に対する裁判権や・確定囚に対する刑の執行権が認められていましたが、火付盗賊方改にはそのような権限を、ほとんど持たされていなかったようです。
火付盗賊方改は現代で言えば、警視庁刑事部捜査一課(殺人・放火・誘拐など凶悪犯罪を担当)・捜査二課(知能犯罪・経済犯罪担当)に相当する職務に従事していたと考えられます。
火付盗賊方改の組織構成
「大岡越前7 町奉行所の構成 同心・与力 町奉行所の構成」と言う記事で町奉行は、職務範囲やその内容に比べて決して大規模な人員を擁した組織ではないことを説明しました。
大きな組織ではないことは、火付盗賊方改も同じで、与力10名・同心40名の合計わずか50名の「少数精鋭部隊」であったと考えられます。
「鬼平と梅安が見た江戸の闇社会 (宝島社新書)」の6ページから7ページでは、文章を用いてこうした火付盗賊方改の組織構成を紹介していますので、わかりやすく表にまとめました。
役名 | 与力の数 | 同心の数 | 役割 |
---|---|---|---|
召捕方廻方与力 (めしとりかたまわりかたよりき) | 7名 | – | 江戸市中の巡回・犯罪捜査・犯人逮捕 |
役所詰与力 (やくしょづめよりき) | 3名 | – | 犯人の取調べ |
手付同心 (てつきどうしん) | – | 7名 | 江戸市中の巡回・犯罪捜査・犯人逮捕処理する |
届廻同心 (とどけまわりどうしん) | – | 6名 | 老中・若年寄・御側衆の邸宅を巡回 |
差紙使同心 (さしがみつかいどうしん) | – | 9名 | 証人・参考人の呼び出し |
頭付同心 (かしらつきどうしん) | – | 3名 | 長官の秘書 |
書役同心 (かきやくどうしん) | – | 9名 | 犯人の供述調書の作成とそれらに関する事務 |
雑物懸同心 (ぞうもつがかりどうしん) | – | 2名 | 犯人の所持品や没収となった家屋や家財の処分や盗品の処理 |
溜勘定懸同心 (ためかんじょうがかりどうしん) | – | 1名 | 溜(医療刑務所)に預けた囚人の食費などの会計を行う |
浮役同心 (うきやくどうしん) | – | 2名 | 病気や事故で休んだ同心たちの事務を代行 |
激務だった火付盗賊方改
火付盗賊方改の職制は江戸幕府の中で約200年の間続き、その間240名がその職につきました。通常、火付盗賊方改を2~3年無事務めると、次は京・大坂の町奉行か、幕府直轄地の奈良・堺の奉行職に栄転することになっていました。
しかし「鬼平」こと長谷川平蔵は、1788(天明8)年から8年間の間、火付盗賊方改の職にとどまり、その職を辞した3日後の50歳の時に亡くなります。
なんとなく想像ができるかもしれませんが、火付盗賊方改の職は江戸町奉行と同様にいかに激務であったか、その様子がわかるエピソードでしょう。