江戸時代の外食文化
蕎麦屋・料理茶屋・煮売り屋以外の外食
NHKBS時代劇「あきない世傳(せいでん)金と銀2」の原作である、小説版「あきない世傳(せいでん)金と銀」の奔流篇から、物語の舞台が大坂から江戸に変わります。主人公の幸(小芝風花)は、大坂とは異なる江戸の事情や人々の好みについて心を砕くようになります。
以前、「大岡越前7 蕎麦屋・料理茶屋・煮売り屋 江戸の外食文化」という記事を公開しましたが、今回の記事では「あきない世傳(せいでん)金と銀2」とかけて、江戸時代の人々が好んだ「ファーストフード」について紹介しましょう。
なお、当時の金銭価値を現代の金銭価値に直すために、「一文=40円」のレートを採用しています。
江戸時代のファーストフード(食べ物編)
奈良茶飯
1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」ののちに、浅草雷門前に奈良茶飯を出す店が始まったのが、最初とされています。
奈良茶飯は、名前の通り、東大寺や興福寺の僧坊で作られていたことが始まりとされます。浅い煎茶に塩味をつけて飯を炊き、さらに濃い煎茶をかけてお茶漬けのように食べます。その飯に豆腐汁・野菜の煮物・煮豆を添えていました。
定食のようにセット売りをして、1人前は33文(1,320円)です。当時、昼食のための定食を出す店は少なく、明暦の大火後の復興のために大勢の肉体労働者が江戸市中に入り込んだことも相まって、料理茶屋と同様に奈良茶飯屋もヒットしたそうです。
握り寿司
現代で寿司といえば、ほとんどの場合は握り寿司のことを指します。ですが江戸時代の前期・中期ぐらいまでは、飯を発酵させた「なれずし」や飯に酢を混ぜ魚の切り身を飯の上にのせて、木枠に入れて押した「おしずし」などがでした。
酢飯の上に魚の切り身をのせる「握りずし」の原型が出来上がったのは、江戸時代の後半の文政年間(1818~30年)のころであると言われています。
「なれずし」や「押しずし」は飯と魚を合わせてから食べるまでに時間がかかったのが対し、「握りずし」は飯と魚を合わせてすぐに食べられることが、江戸の人々のニーズにマッチしました。
当初、「握りずし」は屋台で食べる者であり、長居をしないことが「粋な食べ方」とされています。そんな握りずしは一貫四文(120円)で、三貫も食べると茶碗一杯分ぐらいの米を食べることになったそうです。
鰻丼
現代でも夏バテ対策として鰻を食べることを勧められますが、その走りは平賀源内のキャッチコピーです。鰻屋に「本日、土用丑の日」という張り紙をして売り出したことから来ていると言われています。
天明年間(1781年〜1789年)の頃、上野では丸のまま串に刺して焼き、その状態が「蒲の穂」に似ていることから「蒲焼き」と名付けられました。
その後、鰻の腹開きや背開きの方法が考案され、鰻屋が飯と合わせて出すようになったのは、文化年間(1804年〜1818年)の頃です。丼飯に鰻をのせた鰻丼は一杯六十四文(2,560円)で供されたそうです。
なお当時は隅田川で大量の鰻が取れたため、今と違って中国からの輸入に頼る必要は全くありませんでした。
天麩羅
天麩羅も、握りずしや鰻丼と同じく、現代の日本人にも馴染みがある食べ物です。
ただし天麩羅がいつ頃、どのように現代のような形で食べられるようになったのかは諸説があります。
- 奈良時代にはすでに魚介類を油で揚げる調理法があった説
- 安土桃山時代にポルトガル人宣教師が魚に衣をつけて揚げていた説
- 江戸時代の天明年間に大坂の「つけ揚げ」を江戸に持ち込んだ説
江戸学の祖とも言われる三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)によると、1785(天明5)年ごろには、天麩羅の屋台が江戸市中に出始めており、穴子・芝エビ・コハダ・貝柱・スルメなど天麩羅として屋台で出されていたと言われています。
屋台で供されていた分、天麩羅の値段は安く一串四文(160円)だったそうです。
獣肉鍋
日本では明治時代が始まるまでは仏教信仰との兼ね合いで獣肉を食べることは穢れがあるとして避けられていましたが、その一方で肉食は「薬喰い」として滋養強壮に効果があると認められていました。
その名残として猪を鍋の具材として食べることを「牡丹鍋」といいます。猪の肉を食べることを直接表現することを避けて、花札の絵柄を引っ掛けて遠回しに表現したものです。
獣肉屋を売る店のことを「ももんじ屋」とも言われましたが、その数が増えたのは江戸時代後期の1830年代ごろであると言われています。
シカ・イノシシ・ウサギ・ウシの肉を鍋物・吸い物・田楽などに調理して、鍋物であれば小は五十文(2,000円)、中は百文(4,000円)、大は二百文(8,000円)で販売していたそうです。
江戸時代のファーストフード(飲み物編)
茶
道や寺社の境内に葦簀張りの店を開き、店内や店外に縁台を置いて茶を飲ませる店を水茶屋・腰掛け茶屋とも言われ、六文(240円)を出せば茶と団子が振る舞われた言います。
ただ江戸時代の中期になると、こうした水茶屋は積極的に若くて美貌の女性を雇って給仕させるようになり、茶代を三十文(1,200円)から五十文(2,000円)に跳ね上げるようになります。
今でいう「メイドカフェ」のようなものですが、彼女たちは浮世絵のテーマにもなるほどの評判の美人であったそうです。
甘酒
甘酒は飯に米麹と水を混ぜて保温し、米の澱粉を糖化させて発酵する前に飲む飲み物です。砂糖が高級品であった江戸時代において、甘酒は貴重な甘みだったのです。
甘酒を一年中売っている水茶屋なども存在しましたが、多かったのは天秤棒を担いで江戸市中を売り回る「甘酒売り」でした。京・大坂では一杯六文で売られ、江戸では一杯八文で売られていたと言います。冷水