江戸時代の人は自宅でどんなものを食べていたのか?
竃つきの長屋で自炊が可能
「大岡越前7 蕎麦屋・料理茶屋・煮売り屋 江戸の外食文化」と「あきない世傳(せいでん)金と銀 江戸時代のファーストフード」という2つの記事で江戸時代の外食についてご紹介をしました。
もちろん江戸時代に外食産業が存在したことは、江戸の庶民は毎食、外で食べていたということではありません。庶民が住んでいた町屋敷の長屋には、どんなに狭くても竃(かまど)がついており、煮炊きなどの調理をすることが可能でした。
そこで今回の記事では江戸時代の庶民がどんなものを食べ、またどうやって手に入れていたのかご紹介します。
江戸っ子と米食
江戸っ子は一日五合の米を食べた
江戸時代の主食はなんといってもお米です。当時、白い飯を腹一杯食べられることは江戸っ子の自慢でもあり、成人男性は1日五合の米を食べ、「夫婦+子供1人」の家庭で1日一升の米を消費したと言われています(現代の成人が1日に消費する米の量は一合程度)。
江戸時代の文化・文政期であれば銭百文で一升六合ほどが米屋で買えたと言いますので、今の金銭価値に直すと「夫婦+子供1人」の家庭は1日食べるための米のために、2,500円を使っていたと考えられます(一文=40円の計算)。
白い飯を中心としたメニュー
江戸時代において1日に食べる米は、江戸では朝に炊き、大坂では昼に炊いたと言われています。
今と違って炊飯器が使えるわけではありません。米を研いで炊くという作業は1日1回に限定していたようです。また保温・冷凍・解凍という技術もありませんので、1日の基本的なメニューは朝に炊いたご飯は固くなることを前提としたものとなります。
- 朝食: 炊き立てのご飯・味噌汁
- 昼食: 冷飯・野菜の煮物または焼き魚
- 夕食: お茶漬け・香の物
白米の食べ過ぎが引き起こす脚気
「白い飯」は江戸っ子の自慢であった一方、白米に偏った食生活は、ビタミンB1不足をもたらし脚気の原因となります。
精米をする前の玄米の状態であれば、ビタミンB1を補うことができますが、江戸っ子は玄米を食べることを嫌っていました。当時はビタミンB1の存在がわかっておらず、江戸に長く留まるとかかることから、脚気は「江戸患い」として恐れられていました。
白米以外の食事について
棒手振りという行商人が食材を売り歩いていた
江戸っ子の1日のメニューを見ると、米以外にも味噌・野菜・魚類を摂取していたことが分かります。こういった食材はどうやって手に入れていたのでしょうか?もちろん現代と違って、当時にはスーパーマーケットもなければ、ショッピングセンターもありません。
江戸時代の庶民たちは町屋敷の長屋にかたまって住んでいましたので、この長屋の人たちを目当てにさまざまな食材を販売する行商人がやってきました。江戸では彼らのことを「棒手振り(ぼてふり)」、大坂では「振り売り(ふりうり)」と呼んでいました。
棒手振りたちは長屋の一室ごとにある玄関までやってきて、食材を販売しにくるため、住人たちは食材を買うために外に出かける必要はなかったと言われています。
棒手振りたちが売り歩いた食材の例
では江戸時代の長屋に住んでいると、玄関先にはどんな「棒手振り」たちがやってくるのでしょうか?いくつかの例を挙げてみましょう。
納豆
当初、刻み納豆が味噌汁の具にされたそうですが、のちに粒納豆がご飯にのせられて食べられるようになったと言われています。
行商の納豆を購入するとき、汁椀ですくい取られて四文で、叩き納豆は八文で辛子を添えると四文増しになったと言われています。
豆腐
江戸っ子たちは白米以外にも「白いもの」が大好きで、白米の他にも大根・豆腐などが珍重されたと言います。
当初、江戸では木綿豆腐が食べられており、一丁五十六文(2,160円)から六十文(2,400円)程度でした。一丁は食べきりのサイズとしては大きいので、半分や4分の1にしたものも販売されていたようです。
ちなみに豆腐から作られる油揚げや焼き豆腐なども棒手振りで売られており、値段はどちらも五文(200円)だったと言われています。
茄子
棒手振りたちは天秤棒に籠をくくりつけて、野菜を入れて長屋を売り歩いていたと考えられます。なすは10個で五文(200円)、青菜は1束四文(160円)から六文(240円)程度だったそうです。
玉子
江戸時代に玉子が食べられるようになったのは文政年間(1818~1830年)の頃で、当時は1個あたり20文(800円)で、現代の感覚からするとかなり高価なものでした。
塩鰯
棒手振りたちは魚に特化するものもいて、さらにその中から塩干物に絞って行商をする者もいたようです。
鰯は「下魚」とされていましたが、貴重な動物タンパク源ということもあって塩鰯が一尾あたり八文(400円)で販売されたようです。
小蛤・シジミ
当時は建前上、獣肉を食することは避けられていたこともあって、貝類は江戸っ子の貴重な動物タンパク源でした。
長屋の前には朝からシジミ売りの呼び声が盛んで、子どもの声も混じっていたと言います。小蛤は一升二十文(800円)で、シジミは一升六〜十文(240~400円)だったと言われています。
ここに挙げたのはあくまでも一例です。これらの他にも葉物野菜(ひと束四〜六文)・こんにゃく(一枚八文)・がんもどき(八〜十文)など多種多様な食材が長屋の前を通っていったと考えられます。