江戸時代の人たちにとっての水道とは
江戸時代、飲み水は誰でもアクセスできた
NHKが放送する特選時代劇「大岡越前7」やBS時代劇「あきない世傳 金と銀2」を見ると、登場する人物たちが、武士や町人と言った身分の区別にかかわらず、決して困っていないものが1つありました。
それは飲み水です。飲み水は茶を沸かす時にも、米を研ぐ時にも必要です。「士農工商」という身分制度が絶対であった世の中にも関わらず、飲み水については誰でも容易にアクセスできたようです。
前回の「大岡越前7 江戸時代の飲み水事情と上水道開発の歴史」という記事では、その飲み水を供給するために江戸の上水道はどのように開発されてきたのか、その歴史についてご紹介をしました。
今回の記事では上水道を整備するための当時の技術についてご紹介します。
神田上水と玉川上水
江戸時代の江戸における主要な上水道は、1600年頃に大久保藤五郎忠行(主水)が主導して開発した神田上水と、玉川庄右衛門・玉川清右衛門兄弟が主導し、1653(承応2)年に完成した玉川上水です。
のちにこれらの神田上水と玉川上水から、亀有・青山・三田・千川の各上水が派生したり、江戸時代中期に安価な掘抜井戸が普及することになりますが、これらはすべて神田上水と玉川上水がしっかりと流れていることが前提です。
よって今回の記事では、神田上水と玉川上水の工事やそれらで使われた土木技術に絞ってご紹介します。これらの上水は当時の土木技術の水準からすると極めて難しい工事であったと言われています。
神田上水の工事と特徴
都市内部を通す給水インフラ整備
- 水源は武蔵野の井の頭池で、善福寺川・妙正寺川を合わせた水流を目白台下の関口の堰で分水し、江戸市中へ水を流れさせる
- 江戸の中心部を通るため、宅地や道路の下を水が流れるように設計。
- 地下に木樋(もくひ)や石樋(せきひ)を通し、町屋や武家屋敷に分水するシステムが構築。
- 樋(とい)には、杉やヒノキ製の丸太に穴を開けた木製の樋と、石材をくり抜いた石樋が使用される。
樋を通ってきた水は、町ごとに水道タンクとなる上水井戸から汲み上げて使う仕組みになっていました。
地中に埋設する技術
- 地下に配水管を通すには、雨水や地下水による腐食・漏水対策が必要でした。
- 継ぎ目に縄や油紙を巻いたり、接合部に粘土を詰めるといった工夫がされました。
- 神田・日本橋を中心に埋設された木樋や石樋は総延長で63kmに及ぶと言われる
水の圧力管理と維持
- 勾配を緩やかに保ちつつ、途中で水圧が高くなりすぎないよう調整が必要。
- 必要に応じて樋の断面積を変えたり、井戸(中継井)で圧力を逃がす装置も作られたと考えられます。
2019年にNHKで放送された正月時代劇の「家康、江戸を建てる(前編) 水を制す」では、佐々木蔵之介さん扮する大久保藤五郎忠行や工事関係者たちが、初めて井の頭池の水源を初めて江戸市中に通した時には、市内のあちこちで水道管が破裂するというアクシデントに見舞われることが描かれています。
玉川上水の工事と特徴
羽村取水口(多摩川)から四谷大木戸まで43km
- 武蔵国多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)を水源として水門となる四谷大木戸までの水路開削を計画
- 直線距離ではなく蛇行しながら水を流すルートで、高低差はわずか約92m(2‰の勾配)。
- 現代でいう「ナチュラル・グラビティ・フロー」による水流。つまり重力だけで水を流す設計。
- 夜中には線香や提灯を持たせて地道な測量を実行
勾配管理の難しさ
- 誤って高低差が大きすぎると流速が早まり、川床が削られて崩壊。
- 逆に平坦すぎると水が滞留し、腐敗や沈泥の原因に。
- 竹の棒に水を流して傾斜を測る「水勾配測量」や、水を張った溝を仮に掘って水の流れを確認する原始的な方法で確認したとされます。
地形の難所への対応
- 谷や沢に直面した際には、木製の樋を橋状にかけて水を通す「樋橋」や暗渠(あんきょ)を作る。
- 崖では石垣を築いてルートを確保するなど、複合的な土木技術が駆使される。
予算の不足と工期の短さ
- 工事は2回失敗し、予算が底をついてしまう事態に。
- 数万人の農民・職人が動員され、工程は急ピッチで進行し8ヶ月ほどで完成。
- 町人であった庄右衛門・清右衛門の兄弟はその費用を自己負担(3,000両)で始め、完成後に幕府から正式に認可・報奨され、7,000両の公金が追加される。
玉川上水を完成した功により、庄右衛門・清右衛門は「玉川」姓の苗字と帯刀を許され、玉川上水役として二百石の扶持を賜ることになります。
江戸時代の水道料金・「水銀(みずぎん)」について
なお、神田上水や玉川上水によって江戸市中に行き渡った上水道は、利用者であるぶけや町方から「水銀(みずぎん)」という水道料金が徴収されて、維持管理されていました。
武家は石高に応じて料金が決まり、町方では表通りの間口一間(約1.8m)につき、月に十一文(約330円から440円程度)を負担したと言われています。
江戸の町方人口の7割を占めた裏通りの長屋住まいの町人は、水銀相当分が含まれた店賃(家賃)の中から水道料金を支払っていたと考えられます。