江戸と東京の治安維持について
江戸幕府の治安要員はたったの13人
「大岡越前7 町奉行所の構成 同心・与力 町奉行所の構成」と言う記事で、NHK特選時代劇「大岡越前7」とNHKBS時代劇「大岡越前8」に登場する江戸町南奉行所には、行政機関・司法機関としてさまざまな役割があることを説明しました。
特に治安機関としての町奉行所の役割は、わずか13名の同心が担っていたことは特筆すべきことですが、どうやって最盛期には「100万都市」とも言われた江戸の治安を維持していたのでしょうか?
警視庁の警察官は4万3,000人
2025年1月1日現在、東京都の人口は約1,400万人で、東京都の治安を維持する役割がある警視庁における警察官の数は約4万3,000人(2024年1月1日時点)です。
江戸時代の江戸の人口が約100万だったとして、現在の警視庁の警察官に相当する同心は約3,070名が必要となるはずですが、史実として存在した13名とはあまりに数が違いすぎます。
江戸の町の自治システム
江戸の町の支配構造
実は江戸時代において江戸の治安を維持していたのは町奉行所の武士たちだけではありません。町人と呼ばれる身分の人たちも自治組織に参加していました。
江戸時代の治安維持を含めた民政は、町奉行を頂点としていくつかの段階に分けてコントロールされていました。その支配構造を簡単に表すと以下のようになります。町年寄以下のいわゆる町役人が自治組織に該当します。
町奉行(まちぶぎょう)
↓
町年寄(まちどしより)
↓
町名主(まちなぬし)
↓
月行事(がちぎょうじ)
↓
大家(おおや)
それぞれの役割
役名 | 役割 |
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町奉行 (2名で南北で1名ずつ) | 江戸幕府で民政を担当する最高責任者 |
町年寄 (3名) | 奈良屋(のちに館)・樽屋(のちに樽)・喜多村の三家が世襲でつとめる。町奉行と名主の間に立って民政を統括する |
町名主 (250名) | 草創名主・古町名主・平名主・門前名主の4種類の名主で構成される。軽微な喧嘩沙汰や訴訟を処理する |
月行事 (1600名) | 大家が構成する五人組の中から選出され各月交代で担当。各町に一人。町内の自身番に詰める。 |
大家 (2万人超) | 町屋敷・店子管理の責任者。町触れがあった場合には長屋の店子たちに読み聞かせを行なった |
現在であれば、町中や鉄道の駅前で喧嘩沙汰や騒音トラブルが起これば、警察官が介入することもあり得ます。
しかし江戸時代では、近所同士の喧嘩沙汰や騒音トラブル程度では、定廻・隠密廻・臨時廻と行った特に警察業務を担当した同心たちが介入することはほとんどなく、町名主・月行事・大家のいずれかが解決をしていたと考えられます。
江戸の町の治安維持システム
自身番(じしんばん)
月行事が月ごとに詰める自身番とは現代風にいうと、交番・消防署の分署・公民館を兼ねた施設であると言えるでしょう。
町内で喧嘩や不審者が出た場合、目撃者や関係者はまずこの自身番で事情を聞かれます。さらに捨て子や行き倒れが出た場合には、一時的に保護をすることもあったそうです。
他にも火事を知らせる半鐘や消火道具一式も揃えられて、火事に対する備えもありました。
木戸番(きどばん)
長屋に住む江戸の庶民たちの門限は決まっており、夜四つ(午後10時)と決まっていました。門限に達すると長屋に入るための町屋敷は木戸を閉じていました。
翌朝の明け六つ(午前6時)になるとこの木戸は解放されるわけですが、この木戸の開け閉めを行なっていたのが木戸番です。
木戸番を管理する人間のことを「番太郎(ばんたろう)」と呼ばれ、やむを得ない理由で木戸が閉まっている時間帯に通行する場合は、番太郎にお願いして木戸を開けてもらっていました。
日髪(ひかみ)と日剃(ひそり)
当時の髪結い床たちは、町奉行の与力・同心の組屋敷に毎日訪れて、彼らの結髪や髭剃りを担当していました。これらは「日髪(ひかみ)」と「日剃(ひそり)」と言う習慣です。
なぜ髪結い床たちは奉行所から営業権の特権を得る代わりに、奉行所の近くで火事があると駆けつけて書類の運び出し補助の義務を負ったほかにも、通行人の監視や橋の掃除などの責任も負っていました。
当時の髪結い床といえば、「庶民の社交場」です。さまざまな人が集まることによって、犯罪に関連する情報も自然と髪結い床に集まってきていたと考えられます。
奉行所は髪結い床の情報ネットワークを犯罪捜査や犯人逮捕に活用していたと考えられます。
岡っ引き
江戸の捕り物といえば「銭形平次シリーズ」でも見られるように、庶民たちからは「親分」とも言われる岡っ引きたちが登場します。
彼らは町奉行所から「十手(じって)」と呼ばれる捕物道具を貸し与えられ、与力・同心たちとともに犯罪捜査や犯人逮捕に従事しますが、幕府の正式な役人ではありません。
彼らの身分はあくまで町人であり幕府から禄や扶持といった給料は与えられていません。代わりに彼らは町中で蕎麦屋や料理屋などを経営して独力で生活をしていました。