大岡越前7に登場する外食産業
「小料理」の店や蕎麦屋がドラマに登場
NHK特選時代劇「大岡越前7」に登場するキャラクターの1人に、「たぬき屋」の三次(近藤芳正)という人物がいます。「たぬき屋」の暖簾には、文字通り「たぬき」の絵と「小料理」と言う文字が染められています。
「たぬき屋」は南町奉行所の町廻同心たちやその配下の岡っ引きたちが集まる店で、ご飯を食べながら仕事に関する雑談をするシーンが描かれています。
またドラマを見ていると、その町廻同心が蕎麦屋に張り込みをしていたり、南町奉行である大岡忠相(高橋克典)自身が、営業中の屋台の蕎麦屋に出向いているようなシーンも見られます。
江戸時代の外食産業
こうして「大岡越前7」にたびたび登場する「食べ物屋」さんは、江戸の外食文化を象徴する重要なキーアイテムです。
今回の記事では、「煮売り屋」・「料理茶屋」・「蕎麦屋」を中心とした、江戸時代の江戸における外食文化についてご紹介します。
煮売り屋(にうりや)とは
江戸時代前期に登場した煮売り屋
「煮売り屋」・「料理茶屋」・「蕎麦屋」と言う「食べ物屋」さんのうち、江戸時代を通して江戸で最初に出現した業態は、「煮売り屋」であると考えられています。
江戸は徳川家康が1603(慶長8)年に幕府を開府して以来、常に建設ラッシュで規模を拡張をし続けていました。そのため土木作業や建設作業に従事する男性の肉体労働者が求められ、女性よりも男性の人口の方が多かったと考えられています。
「江戸はスゴイ 世界一幸せな人びとの浮世ぐらし (PHP新書)」によると1721(享保6)年の時点で、町方の人口は女性は17万8109人(35.5%)で、男性の人口は323,285人(64.5%)であるとしています。
煮売り屋とは「イートインスペース付きのコンビニストア」
こうした男性の肉体労働者の中には、江戸以外の地方から単身で働きにくるケースが多く、炊事に時間を割く余裕はありませんでした。そのような背景のもと、江戸の飲食業は発達し、最初に登場するのが「煮売り屋」です。
「煮売り屋」と言う言葉は現代の日本語ではあまり聞きなれない言葉ですが、今風に訳すと「イートインスペースがあるコンビニストア」と言うことになるでしょう。
煮物・惣菜・味噌田楽・握り飯・団子などの軽食にお茶やお酒をつけて出すと言う業態です。もちろん現代のコンビニと同様に、これらの飲食物を自宅に持ち帰って食べることもOKです。
「ぼんくら」に登場する「煮売り屋」
「大岡越前7」では「煮売り屋」と言う業態の「食べ物屋さん」は出てきませんが、宮部みゆきさんの時代小説を原作とするNHK木曜時代劇「ぼんくら」の中では、松坂慶子さん扮するお徳が長屋の一隅で「煮売り屋」を営んでいます。
料理茶屋(りょうりぢゃや)とは
たびたび夜間営業禁止令が出された煮売り屋
「煮売り屋」が出現した当初、街中で気軽に食事が取れることは画期的であり、庶民の間で「煮売り屋ブーム」が起きます。そのためあちこちに「煮売り屋」が現れたほどです。
しかし流行りすぎがたたって、「煮売り屋」は江戸で発生する火災の原因にもなりました。業を煮やした幕府は「煮売り屋」たちに対して、たびたびの夜間の営業禁止令を発令しますが、あまり効果はなかったようです。
「料理茶屋」とは「定食屋」
そんな中、1657(明暦3)年3月に発生した「明暦の大火」の後に台頭してきた飲食業が「料理茶屋(煮売り茶屋)」です。この「料理茶屋」を現代の日本語に直すと「定食屋」といったところになるでしょう。
「料理茶屋」は料理を出すことを専門にした飲食業のことで、茶を使って大豆や米を一緒に炊いた一膳飯と、豆腐汁・煮物・香の物を基本的なセットメニューとして、昼食目当ての客に食事を提供していたと考えられています。
「大岡越前7」に登場する、「たぬき屋」の三次は、ちょうどこの「料理茶屋」を営んでいると言う設定です。
時代が下ると高級路線の料理茶屋も登場
現代の日本語として「料理茶屋」をそのまま解釈すると、なんとなく高級な響きがします。確かに同じ江戸時代でも明暦年間以降、時代が下るにつれ高級路線を行く「料理茶屋」も出現しました。
例えば浅草の山谷にある「八百善」はその代表例です。メニューとその金額といえば、
- ハリハリ漬け: 金三分(12万円)
- お茶漬け: 金一両二分(24万円)」
と言う具合です。当時の長屋に住む一人前の職人に日当が銀三匁(8,000円)ほどだったことを考えると「八百善」の食事がいかに高額なものであったかわかるでしょう。
江戸の蕎麦屋について
江戸時代前期は蕎麦も饂飩も同じくらい人気があった
江戸といえば「蕎麦」と言うイメージが強く、「饂飩(うどん)」よりも多く食べれられていたと言うイメージがあります。
しかし江戸時代の初期の頃はそうでもなく、上方(京・大坂)と同じく、江戸でも饂飩がそれなりに消費されていたようです。
蕎麦が饂飩よりも人気になった理由
しかし江戸時代中期の天明年間(1781年〜1789年)ごろから、江戸における蕎麦と饂飩の地位が変わり始めます。
上述shた「江戸はスゴイ 世界一幸せな人びとの浮世ぐらし (PHP新書)」では蕎麦が饂飩の地位を取って代わるようになった理由は「よくわからない」としていますが、「江戸暮らしの内側-快適で平和に生きる知恵 (中公新書ラクレ 642)」の74ページでは、6つの理由を紹介しています。
- 蕎麦の産地に恵まれた
- 二八蕎麦が生まれて蕎麦の値段が安定した
- 夜蕎麦売りが増え、江戸庶民にとって馴染みやすい食べ物になった
- 蕎麦にあった蕎麦汁が生まれた
- 蕎麦のスッキリした味が江戸っ子の気質にマッチした
- 高級蕎麦店が増え、上流層も客に取り込むことに成功した
これらを見ると江戸において饂飩よりも蕎麦が上位にたった理由は、蕎麦は江戸に住むさまざまな階層の人にマッチした(3,5,6)ためとも考えられますが、商品経済が発達し江戸にさまざまな物資が安定的に流入するようになったことも大きいでしょう。
「一杯十六文」 蕎麦の価格は統制されていた
実は蕎麦は幕府に価格を統制されており、かけそばの値段は一杯十六文(640円)とされていました。
この価格は、幕末に幕府がそれまでの鎖国政策から開国政策に改め、激しいインフレーションが起こって二十四文に価格が引き上げるまで据え置かれていたようです。
江戸時代の庶民にとって蕎麦はいわば「物価の優等生」だったのですが、一方で蕎麦屋の主人たちはどこで利益を確保していたのでしょうか?どうやら彼らは蕎麦にのせる天麩羅や鴨肉などいわゆる「たねもの」で利益を上げていたようです。
もちろんこういった江戸時代に蕎麦屋が行った工夫は、現代日本の一般的な食堂で提供される、「天麩羅そば」や「鴨南そば」として当時の名残りを残しています。