大岡越前と南町奉行
南町奉行所は江戸の南を管轄していたのか?
NHK特選時代劇「大岡越前7」とNHKBS時代劇「大岡越前8」の主人公といえば、俳優・高橋克典さん扮する大岡忠相で、その役職は江戸南町奉行です。
また、その南町奉行の対とも言える北町奉行には、俳優の高橋光臣さん扮する伊生正武(いのうまさたけ)が就いています
では大岡忠相や伊生正武が就い町奉行とはどういう役職だったのでしょうか?大岡忠相は「南町奉行」と呼ばれるぐらいなので、「江戸の南側を管轄していたお奉行様」だったのでしょうか?
北町奉行と南町奉行の意味
江戸城内の位置によって呼び方が変わった奉行所
江戸幕府の職制に多いて、町奉行には北町奉行と南町奉行が存在しましたが、これらは現代の警察署のように治安維持を担当する管轄地域が異なると言う意味ではありません。
江戸城内に置かれた奉行所の施設の位置が北側にあったものを「北町奉行所」、反対の南側にあったものを「南町奉行所」に呼んでいたにすぎませんでした。
民事訴訟の取り扱いは月番制
「公事(くじ)」と呼ばれる民事訴訟の案件については、2つの奉行所が「月番制」をとっていました。
ある月において北町奉行所が民事訴訟の裁判を開いているとすれば、南町奉行所はこれまでに受けた訴訟の事務処理や調査などを行なっいて裁判は行われていないと言う意味です。
刑事事件の捜査は月番にかかわらず行われた
しかしながら、刑事事件については月番にかかわらず南北いずれの町奉行所も捜査に当たっていました。「大岡越前7」でも南町奉行所で警察業務を担当する同心たちが、江戸市中で同じく警察業務に従事する同心たちに出くわすのはこのためです。
町奉行所の管轄地域について
町人地・寺社地・武家地で管轄権が異なった
では江戸市中で事件が発生すれば、北町奉行もしくは南町奉行がすべての訴訟を受け付けたり、裁判を開いていたかといえばそうではありません。
江戸時代の江戸には町人地・寺社地・武家地が入り乱れており、それぞれの土地においてどの役職が訴訟を受け付けたり、裁判を開いたりするか決まっていました。
- 町人地 → 町奉行
- 寺社地 → 寺社奉行
- 武家地 → 目付または大目付
寺社地と武家地には「町奉行不介入の原則」があり、北町奉行もしくは南町奉行の権限が及ぶ地域は江戸市中の町人地に限られていました。
江戸はどこからどこまで?
町人地・寺社地・武家地による管轄分けは比較的分かりやすいのですが、当時でさえ分かりにくかったのは「どこまでを江戸とするのか」です。
もし江戸市中と隣接する幕府直轄領の町人地で強盗事件などが発生した場合、その事件は勘定奉行が担当することになります。
江戸は徳川家康が幕府を開府して以来、絶えず都市化を続けていたため、どこからどこまでが江戸であるのか、行政上の範囲を確定させることが極めて困難でした。
この問題について幕府の公式見解が出たのは、江戸幕府が始まってなんと200年近くが経過した1818(文政元)年です。
江戸の御府内と東京23区との比較
「鬼平と梅安が見た江戸の闇社会 (宝島社新書)」42ページによると江戸の御府内の範囲は以下の通りです。
- 北 : 荒川・石神井川の下流(千住・板橋周辺)
- 東: 中川(平井・亀戸周辺)
- 西: 神田上水(代々木・角筈周辺)
- 南: 南品川宿を含む目黒川(品川周辺)
これら東西南北で区画された御府内を現代の東京23区の行政区画に当てはめると、千代田区・中央区・港区・文京区・台東区のほぼ全域と、新宿区・江東区・品川区・北区・豊島区・墨田区・渋谷区・板橋区・荒川区の一部が該当します。
町奉行所の裁判業務について
裁判業務の取り扱い件数
では町奉行所では年間にどれぐらいの数の裁判業務を扱っていたのでしょうか?「お白洲から見る江戸時代 「身分の上下」はどう可視化されたか」の20ページでは、1771(明和8)年の資料を例にとって前年の1770(明和7)年には以下の数が挙げられています。
- 訴訟(そしょう): 17,292件
- 公事(くじ): 7,900件
- 吟味物(ぎんみもの): 2,403件
町奉行は南北に2名が配置されており、もちろんこれら裁判の準備や調査を行う与力・同心たちが奉行を補佐します。
訴訟・公事・吟味物とは
訴訟
訴状が裁判所に受理された後、まだ原告がお白洲に出ていない、「公事」になる前のものを指します。
公事
原告・被告の両者がお白洲に出廷して初回の審理が行われたものを指します。
吟味物
主に犯罪の容疑者を奉行所に勾引・召喚することで始まる裁判のことです。
江戸町奉行は単なる世襲ではつとまらなかった
「大岡越前7 町奉行所の構成 同心・与力 町奉行所の構成」と言う記事でも説明したように、町奉行は裁判業務以外にも、現代の警察・消防・法務省・財務省造幣局などの業務も兼ねており、配下の与力や同心たちも、現代の裁判所とは異なり、裁判業務だけを担当していたわけではありません。
ここから町奉行の負担は相当なものであり、何事も世襲の江戸時代においてさえも、行政能力や司法能力が長けた旗本でないと町奉行の要職が務まらなかったことが容易に伺えます。
実在の大岡忠相は内勤が多かった
なお「大岡越前7」を見ていると、高橋克典さん扮する大岡忠相は着流し姿に「無役の旗本かつ部屋住みの次男坊」と言う体裁で、江戸市中を気楽に歩いているシーンが多く見られます。
ただこういったシーンはあくまでドラマ上の演出でしょう。実在した大岡忠相は、裁判業務や行政上の決済に追われて奉行所や江戸城に詰めて「内勤」をすることが多く、ドラマのように外に出る機会はそれほど多くなかったと考えられます。