町奉行の年収と年収の測り方
激務の町奉行の年収について
これまでの記事でNHK特選時代劇「大岡越前7」とNHKBS時代劇「大岡越前8」に登場する町奉行としての大岡忠相(高橋克典)はかなりの激務であったことをご紹介ました。
今回の記事では、その町奉行・大岡忠相はどれぐらいの年収を得ていたのかを考察します。
米の価値 一石はいくら?
旗本のように当時の高い身分の武士たちは「知行(ちぎょう)」を与えられていました。知行は「石(こく)」と言う米の量に換算することができますが、分かりやすくするために現在のお金の価値に直す必要があります。
よって話の前提として以下の交換レートを採用します。
- 一石 = 一両
- 一両 = 16万円(一両は四千文として一文は40円とする)
江戸時代を通して米価は乱高下を繰り返しており、本来このような固定されたレートではなかったのですが、今回の記事では話の分かりやすさのために単純化しています。
またお金の価値も当時の物価水準と現代の物価水準を比較するのは難しく、一概に「一両は現代の〇万円」と定めることは難しいのですが、こちらも分かりやすさ優先します。
町奉行の知行
町奉行の役高は三千石(4億8,000万円)
江戸幕府の職制において江戸町奉行の役高は知行三千石と定められていました。三千石は現在の4億8,000万円に相当します。
江戸時代は原則として世襲の時代です。町奉行は先祖代々、三千石の知行を引き継ぐ旗本が勤めることになっていますが、一方で高い行政・司法能力が求められる役職でもあります。
町奉行は血筋の良さだけでは、務まらない役職なので、大岡忠相のように元の家禄が少なくとも能力に基づく抜擢人事もありました(徳川吉宗による「足高の制」)。
町奉行・大岡忠相は三千九百二十石(6億2,720万円)
41才のときに江戸南町奉行に任命される前の大岡忠相が先祖から引き継いだ知行は千九百二十石(3億720万円)で、不足する千八十石(1億7,280万円)は、足高としてプラスされていました。
大岡忠相は江戸南町奉行在任中に、徳川吉宗からその精勤ぶりを評価され、二千石(3億2,000万円)の加増を受けます。このため足高の千八十石分は廃止され、新たに三千九百二十石(6億2,720万円)の旗本として高直しをされています。
町奉行の税収入について
知行地の40%程度が収入
では江戸町奉行としての大岡忠相は、江戸南町奉行在任中に4億8,000万円から6億2,720万円の「年収」を得ていたのでしょうか?
答えは明確に「NO」です。
なぜなら4億8,000万円や6億2,720万円という金額の根拠となっている三千石や三千九百二十石の知行というのは、あくまでその石高の米が収穫できる土地のことを指しているからです。
つまり、幕府が大岡忠相に認めているのは、三千石分や三千九百二十石分の土地における「徴税権」です。
当時の慣習からおよそその40%程度を税として徴収していたと考えられますので、大岡忠相の取り分は米の量にして千二百石から千五百六十八石です。
脱穀するとさらに米の量が減る
さらに年貢米は籾つきの状態で収められますので、別途脱穀する必要があります。この脱穀時におよそ20%程度の量が減ることになります。
よって大岡忠相が実質的に徴収する米の量は、九百六十石から千二百五十四石で、現在の価値に直して1億5,360万円から2億64万円程度となるでしょう。
町奉行 税収入からの控除分
知行で軍役も賄う必要があった
現代であれば、年収1億円を得ている人が、お手伝いさん付きの大きなお屋敷に住もうと、家賃5万円の1Kアパートに住もうとその人の自由です。
しかし江戸時代の武士は現代人のような自由なことはできません。幕府から与えられている知行という考え方は、旗本とその家族の衣食住を満たす「生活費」だけのものではなく、「軍役」という考え方も含められています。
「軍役」とはいざ有事が起これば、旗本本人はもちろんのこと兵士となる家臣を率いて、戦場に駆けつける義務のことです。もちろん家臣に持たせる弓・槍・火縄銃などの武具や鎧なども、主人が揃える必要があります。
知行三千石で30人の兵士
江戸時代の軍役は知行百石あたり1人の兵士を揃えることになっていましたので、知行三千石であれば30人の兵士を揃える必要があります。
一般的に30人の軍勢の内訳は以下の通りになると考えられます。
- 旗本本人 (1名) : 軍勢の大将
- 供侍(2~3名): 軍勢の副将
- 足軽(20~25名): 戦闘要員
- 小者(5~10名): 食料の運搬など兵站支援
もっとも大岡忠相が活躍した江戸時代中期は大規模な戦役がない時代です。「知行百石あたり1人の兵士」という考え方は、かなり形骸化していたと考えられます。
平時でも20人程度の家臣が必要
それでも江戸にある屋敷や知行地の運営などには人手が必要で、知行三千石の旗本であれば以下のような人々が家臣・奉公人として働いていたと考えられます。
- 家老(1~2名): 家政の取り仕切り
- 徒士(1~2名): 主人の警護
- 中間(3名): 旗本の身の回りの世話、使い走り
- 小者(5名): 屋敷内の清掃などの雑用
- 台所方(1名): 炊事担当
- 駕籠持ち(2名): 旗本の移動のための駕籠を担ぐ
- 馬方(1名): 旗本やその家来たちが騎乗する馬の世話
- 門番(1名): 屋敷の守衛
- 奥女中(2名): 旗本の家族の世話
- 代官(1名): 知行地の管理責任者
- 手代(2名): 代官の補佐
- 足軽(3名): 年貢徴収の補助
人員の数と構成は多少前後しても、知行三千石の旗本であれば、平時でも20名前後の家臣は存在したと考えられます。
旗本はこれら家臣を知行地から徴収した年貢米で養っており、1億5,360万円や2億64万円の中から差し引かれることになります。
さらに「人件費」以外も彼らを住まわせる長屋のスペース・馬の飼料代・駕籠のメンテナンス費用など細かく列挙するとさまざまな経費が嵩んでいたと考えられます。
大岡忠相でも「年収1億円」は無理だった
現代のサラリマーンの方であれば、給料明細書を受け取った時にまず確認するのは、税金・社会保険料を控除した手取り額、つまり可処分所得の部分です。
大岡忠相の可処分所得はいくらであったか、非常に興味深いところですが、残念ながら大岡忠相自身の「手取り額」は残されていません。
ですがこういった三千石の旗本として暮らすための必要経費を、知行地で得られた年貢米から差し引くと、現代で言うところの「年収1億円」のような誰もが羨むような生活をしていたことは考えにくいでしょう。